親子鯨山車について
▼呼子の中尾家と鯨
呼子をはじめ九州北部の西海地域では、江戸の初めより紀州熊野の鯨漁師を招き捕鯨がはじまりました。呼子では中尾甚六が江戸時代を通じて捕鯨に取り組み、遠く五島まで遠出し、呼子の湾奥を開発して鯨組の本部機能の組主屋敷と、鯨船や道具などを整備格納する蔵々が、現在の朝市通りにあたる新型鋪に建ち並んでいました。唐津藩にも貢献し、
中尾様にはおよびもないが、せめてなりたや殿様に
との俗謡がもてはやされていました。
三代目の中尾甚六は特に信心深く、明和8年(1771)、氏神呼子八幡神社へ神輿を大坂から千石船でとりよせ奉納しました。
安永7年(1778)、長埼くんちの出し物として鯨の潮吹きの山車を提案し、その行事は7年に1度おこなわれ伝えられています。現在も万屋町の人々は、当番の年に呼子の中尾甚六の墓前にお参りして、祭の無事をお祈りしています。
また江戸時代、中尾家をたよって呼子に捕鯨見物に来た殿様や賓客には、鯨の飾り物を海に浮かべ捕鯨の様子を再現させて見せるなど、鯨の出し物はいつの時代も人気を博していました。
このような歴史をふまえ、呼子の民話「親子鯨の弁天様詣り」になぞらえて、秋に「呼子くんち」として鯨の山車を引きまわし、弁天島付近へ巡幸する予定です。
▼寄贈者 進藤さわと 氏
「豊かな地域文化の創造のために、呼子に曳山を寄贈したい」亡き父の遺志を継いで5年、縁で繋がった方々のご協力のもと、ついに曳山を寄贈しお祭りを興すこととなりました。
「祭」には日本古来の英知が詰まっていると感じてます。地域のアイデンティティであるとともにコミュニティーの核になるもの。老若男女が集い、年を通して祭りの準備や実行を担っていく中で、地域コミュニティーの絆や息吹が刻まれて行き、かつ次世代に継承されていきます。それは現代で失われつつある共生の営みであり、とても感動的で胸を打つものがあります。 奇しくもコロナ禍のタイミングも重なり、呼子のみならず世界へ向けて鎮魂を祈る、お祭りを始める意義はより高まったと感じております。是非、皆様の応援のほど、よろしくお願いいたします。
故 進藤幸彦 氏
▼中尾家 14代当主 中尾吉臣 氏
私の先祖、中尾甚六は江戸時代から明治初期にわたり、呼子を拠点に揃鯨業を営んでおりました。当時の邸宅は佐賀県重要文化財に指定され呼子の捕鯨の歴史を紹介する資料館「鯨祖主中尾家屋敷」として昨年開館10周年を迎えることが出来ました。
この度発案者、進藤様による伝統行事の復興「祭り興し」に賛同し、先日ようやく曳山の完成までこぎつけた事にとても感慨深いものを感じます。ライトアップされた親子鯨が湾内を泳ぐ姿はまるで幻の世界を見ているようでしょう。
「呼子くんち」の復興をきっかけに失われつつある様々な世代の交流こそが地域の強い繋がりの「しかけ」となり町の発展へ続いて行くのではないでしょうか。 呼子の町が元気になって地域の新しい時代の幕開けになる事を願います。
▼鯨の山車 制作者 堀木エリ子 氏
このたび、親子鯨の曳山を和紙で制作させていただくことになりました。伝統的な手法を根底にしながらも、糊や骨組を使わずに立体的に漉き上げる、革新的な技術で制作します。
先人から受け継いだものを進化させて未来へ繋ぐことは、日本のものづくりにおいても、街づくりや地域づくりにおいても、今を生きる私たちの人切な役割です。一方で、新たなことを生み出して、あたらしい未来を切り拓くことも重要です。
地域の人々が共有できる価値を持つ「祭り」という文化のかたちは、呼子町の活性化や、世代を超えた交流に繋がり、地域の誇りとなり、観光祭事として未来の文化や歴史と深く結びついていくことと思います。 自然への畏敬の念や命への祈りの気持ちを込めて、呼子町から世界へと想いを発信する 「祭り興し」に、皆様の応援をいただきたいと思います。